飽きるまで食らうのが大事じゃないか?

 『嫌いなもの、人にいつまでも関わっていないで、自分の好きなもの、人に時間を使いなさい』

 『いつまでも嫌な問題に対して愚痴や文句を言っているのはやめなさい』

 『嫌なものにエネルギーを使っていたら勿体ないよ。楽しまなくっちゃ』

これらの言には、全くその通りだと思わされる。ただし、それらの言が、無理な抑圧の下において実行されていなければ、という条件付きだが。

 これでもかというほど腹の立つことを抱えていて、しかし、それに対していつまでもイライラしていたのでは時間の無駄だからと(心の底から納得し)悟って、怒りがスーッと収まった上で楽しみに向かっていくのなら問題は無いのだが、

「関わっていたら時間の無駄だから」

という意識ばかりが先行し、イライラは依然としてどっしりと自分の中を占めているにもかかわらず、時間の無駄を怖れて無理くりに怒りを押し込め、その上で楽しみに向かっているのだとしたら、それは大いに問題がある。

 何故というに、私自身経験があることなのだが、ちゃんと自身の中に確固とした怒りがあるのに、

「そんなことで時間を使っていても仕方ないから」

と時間の浪費を気にして無理に抑え込めていると、表面ではしばらく何の不満もなく楽しく過ごせていたように思えても、後から後から抑圧した怒りが、その押さえこめた力の分だけ強くなってぶり返してくるからだ。

 誰でも一度や二度は見たことがあるだろう。

「そんなことで怒っていても仕方がないからさ。それにあなたはいつまでそのことで怒っているの?」

と言いながら、そのことで何度も何度も繰り返し怒っている人を。それは、その人が怒りを無理に抑圧して、表面を楽しく装っているだけだからである(そしてその試みは失敗している)。

 だから、多少遠回りになるし、時間の浪費にはなるかもしれないが、

急がば回れ

という諺にもあるように、自身のなかにある確固とした怒りには

「飽きるまで食らいつく」

方が良いと思っている。

「飽きるとか飽きないとか、趣味嗜好のように人の怒りを片づけるなよ」

と思われるかもしれないが、ひとつの怒りについて実際に「飽きる」というのは相当なことである。実際に自分でその怒りに心の底から飽きてしまえば、もう無理に抑圧する必要もないし、もちろん怒る必要すらなくなってくるのだ。

 だから、よっぽど怒っている問題については、飽くまで食らいつくのが精神衛生上は一番良いのではないかと思っている。