「捉えた」と思ったのなら、それは捉えられていない

 それは鍛練であったり、無心を目指すことであったりする訳だが、

「捉えた」

と思い始めたのなら、もうそう思い始めた瞬間から何も捉えられていないと考えて間違いない、というような気がしている。そういった認識は頭に浮かぶ度に壊さなければならない。

 認識をする、意識に上ることによって核からズレてしまっているということもあるのだが、

「捉えた」

という意識が上っていることそれ自体が、無心を破ってしまっているということも当然ある。

 本当に何かを捉えているときは、悲しいかな、自身でそれとは気づけない。後になって、意識も何も無くなったようなボワーっとした状態を振り返ることが可能になったときに、

「もしや、あの瞬間だけは何かを捉えていたのじゃないか・・・?」

と思うことが出来るだけである(それも幻想であることが多い)。

 だから、何かを捉えるための営みは、

「何かを捉えようと努力しながらも、捉えたという意識は排除していく」

といった矛盾(実は矛盾でも何でもないのかもしれないが)を含む。