増えていく楽さ

 「人と会っているときの自分は本当の自分ではない」

という意識が自分を助けることはある。自分ひとりでいるときの自分だけが本当なのだとしていれば、人と会っているときの、とても同一線上にあるとは思えない自身の姿を許容することが出来る。何故ならそれは本当の私ではないからだ。

 しかし、自分ひとりでいるときの自分だけが本当だとしていると、副作用的に、自分という存在の居場所がごくごく狭いところだけに限定されてきてしまうということが起こる。さながら自身が、一粒の砂か、はたまた透明にでもなったかのように思えて、苦しくなる。

 「自分ひとりでいるとき以外の自分も、本当なんだ」

と思えると、この苦しさはやや収まる。とても同一線上にいるとは思えない自身を本当だと認めることは苦痛だとばかり思っていたが、全く違った顔を見せる自己が、関係性の数だけ増えていくのを見ているのは愉快でもあったのだ。なんだか、自分ひとりで背負っていた荷物を、他の私たちと分担しあったような楽さがあった。

 もう頑なに、

「自分ひとりでいるときの自分だけが・・・」

というところに拘る必要は無くなってきたのかもしれない。