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知識というより皮膚感覚

 「女性を知らないと、気が使えるようになってこない」

という話を見聞きして、もちろん例外はあるのだろうけれど、私に限って言えばあまりにもよく当てはまることだったので、ついつい何かと書いてみたくなった。

 以前、『他人を心配するという機能が、ストンと抜け落ちている』というものを書いたのだが、これは、

「気が使える、使えない」

という方面の話でも全く同じことで、

「気を使えば良いのに、面倒だからやらない」

とか、

「わざといじわるで、あるいは意固地になって気を使わない」

とかではなく、

「そもそも気を使うという機能自体がない(そういった概念もない)」

というのが自身の状態というのを正確に表し得ていると思う。

 もちろん、

「ああ、今あの人に対しては声をかけないで、そっとしておいたほうが良いんだろうな」

というように、

「関与しない」

という形では気を使えるのだが、具合が良いように配慮するとか、適切な助け船を出すとか、ちょっとしたサポートをするだとかの、

「関与していく」

気の使い方についてはまるで出来ない(というより、前述のように、そもそもそういった気の使い方を知らない)と言っても過言ではない。

 「そんな、女性を知らないと気を使えないとか言って問題を終わらせていないで、どんどんと気の使える人が積極的に知識を、つまりこういう場面ではこうした方が良いというのを、気の使えない人に与えていけばいいじゃないか」

と考える人もいるかもしれないが、そういった積極的に関与する形での、

「気が使える」

というのは、知識というよりどちらかと言えば皮膚感覚に近いから、それでは上手くいかないと思われる。

 仮に、

「この場面はこうした方が良いよ」

というのを知識で与えられたとしても、

「うん、確かにそう教えたけど、今はそれを使う場面じゃないんだ」

というような、現実の状況にその都度対応する曖昧な感覚は、知識だけでは賄えないから、知識の詰め込みでは仕方のない部分がどうしても残ってしまう。

 それで、そもそも何故女性を知らないとそういう感覚が身についてこないのかについては、私もよく分からないながらも、

「おそらく、全体のうちの片側しか理解していないから、全体を全体として見れていない」

という問題がその根底にあるのではないかと思っている。