言語が身に付くということ

 言語の習得、ある言語が身に付くといった場合に意味されるのは、

「最初から人間に備わっている諸感覚との合致」

なのだと思う。言葉の言い換えに拠って意味を表す技術を高めるのは、言語習得そのものではないだろう。

 外国語を習得しようと思って、多くの人(私も含め)がつまずくのは、

「言い換え」

をもってして、言語の習得とみなしているからではないか。

 「この単語は、日本語で言うところのどれに対応しているのか」

という頭の働かせ方に何の効果もないとは言えないが、これには膨大な時間がかかるし、皮膚感覚との合致が無いから、文字通り、

「身に付いてこない」

だろうと思われる。

 「いや、ひとたび日本語を覚えてしまった後で、諸感覚と外国語との合致を試みるのは困難だ」

と言う人もあろう。しかし、立証に至らぬまでも、私はその言を否定出来るとは思っている。何故と言うに、半ば強制的に外国語環境に入らざるを得なくなった人たちの、あっという間の言語習得を目の当たりにしているからである。

 この、

「あっという間に習得した」

という事実それ自体が既に、

「いちいち日本語との対応関係を追う」

ことを主としたのでは無いことを物語っている。前述の通り、それを主に置いていたらば、膨大な時間がかかるだろうからなのだ。

 その、

「あっという間の習得」

の背景に、

「元来備わる諸感覚との直接の合致」

があったと見ても、そう事実から遠くないだろうと言える気がする。