本当は出来ることを馬鹿にされると・・・

 本当は得意なんだと気づいているけれども、今までは特に身を入れてやってみる気になっていなかったものは、ひとたび他人に嘲笑されると、今までの無関心が嘘だったかのように一気に火がついて、見返してやるつもりで深く没入して行くようなことになっていたりする。

 逆に、例えばてんで駄目なもの、どうやろうと苦手だということがやる前から分かってしまっているものについては、馬鹿にされようが別に火はつかない。笑われようが何を言われようが、

「まあ、相当苦手なんだから仕方がないし、どうしようもない・・・」

と諦めて取り合わず、しかもそれで平気でいる。

 だが、得意であると気づいているものに関して、今はあまり身を入れていないが故の拙さを指摘され、笑われると黙っていられない。

「この野郎、今に見てろよ」

という具合に、ぐわりと熱が身体を駈け廻っていく。

 こうして、他人の嘲笑に拠って火がつき、得意となった(得意がさらに得意となった)ものはいくつかあるのだが、

「今の得意は、過去の他人の嘲笑のおかげ」

とは、安易に考えないようにしている。嘲笑なんていう不快なものは、無ければ無いだけ良いのだから。

 『「辛い境遇に在ったけれども、それが逆に良かった」と言って良いのは本人だけ』で書いたことにも関わるのだが、外部から与えられたマイナス要素を、どうにか跳ね飛ばさざるを得なかった、あるいは跳ね飛ばさずにはいられなかったという理由だけで、マイナス要素を与えてきた外部を肯定する必要は無い。そんなマイナス、無ければ無いで良いのだから。

 ただ、それら嘲笑に拠って得意になったという事実は確かに存在する訳だ。それをどう処理するか。もう既に1段落前で書いたが、マイナス(つまりは嘲笑)が襲ってきて、

「やむを得ず」

あるいは、

「放っておけないから仕方なく」

跳ね飛ばしたのだという、バネとなった嘲笑を肯定も否定もしない処理をしておけばそれで良い。無理に、マイナスをもたらしたものを肯定する必要は無い。