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「育ててやったのに、感謝してこない」という思考のちぐはぐさ

 幾度も書いている方面の話なのだが、今日は、

「育ててやったのに、子どもが感謝してこない」

という論理の、そもそもの破綻についてひとつ。

 子どもは、出生に際し、生まれることを望むあるいは望まないという類の意思表示が出来ない。また、出生先を選ぶことも出来ない(話はそれるが、「子は親を選んでいる」という珍説は、何を根拠としているのだろう)。

 そして親は、コウノトリの例えのように、突然どこからか子どもを運ばれてくる立場にある訳でもなく、子育てすることを誰かに強制されている訳でもない。また、人間の子どもというのが、成長するまでに相当時間がかかり、面倒を見てやらなければ死んでしまうということも、子どもを授かる前に既に承知である。

 つまり出産というのは、お願いしますであるとかやめてくださいであるとかの意思表示が出来ず、ひとりで生きてもいけない赤ん坊を、親の都合で勝手にこの世に迎え入れてしまうという行為なのだ(私自身は、それが善であるか悪であるかを判定する立場にはないと思っている。要するにそれの善悪についてまでは分からない)。そこに愛があろうがなかろうが、何も出来ない存在を、何の見返りも求めない姿勢でもって迎え入れるという選択を、自己の都合で勝手にしている訳だ。

 故に、親が生まれた我が子を育てるのは、意思表示もないままに(まだ存在していないのだから当たり前だが)勝手に連れてきてしまったのだから当たり前の話だということになる。それは、偉いとか偉くないとかいう次元の話ではない。当然そうあるべきというレベルの話だ。自分が承知でその選択をしているのだから。

 そして、子どもも成長するにつれ、自身がかつてそうであったという、赤ん坊の状態というのがどんな状態であったのかを知ることになり、また、その元になる性交→出産という経緯も知ることになるので、

「いかに子どもを産むという行為が自分(親)本位の行為か」

ということまで知ることになるだろう。

 それを知った子どもが、

「育ててやった」

という、自己の都合を棚上げにした発言の欺瞞に気がつかないはずがあろうか。また、とにかくひとりでは生きていけないからひたすら贈与を受けるより仕方が無かった赤ん坊という存在に向かって、そういう存在だと初めから知っていたくせに、

「俺が贈与してやってるんだから感謝しろよ」

という態度で贈与を繰り返し続けた親が、後々出生の仕組みを知った子どもに、どうやって感謝されるのだろう。

 「育ててやったのに、子どもが感謝してこない」

当たり前だろう。

「育ててやった」

という頭を持っている親に、子はどのように感謝したらいいのだろうか。おそらく、

「育ててやったのに」

という愚痴は、

「育ててやる→感謝される」

という図式が頭の中にあるからこそ出てくるのだと思うが、それは前提が間違っているので論理が破綻している。育ててやったという自己欺瞞の精神に、感謝の見返りなど、はなから用意されていないのだ。