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相手のことを想って叱っている 説教がタメになる

 「叱る方が辛いんだよ。これはあなたの為を想って言っている。」

なるほど、結構なことだろう。自分の説教が効果を発揮すると知っていて、なおかつそれを的確なとき、的確な言葉で持って届けることが出来ると信じているのだろう。

 しかし、それはひとりでに進んだ妄想ではないのか。効果を発揮すると分かっているから、嫌々ながらやっている、本当にそうか。そんな技術を本当に持っているか。持っているとして、それがちゃんと届くと胸を張って言えるか。叱ると怒るをちゃんと分けられているのか。怒りを発散したくて仕方がないからという理由でやってしまった後、その言い訳、正当化として、

「叱り」

「あなたのため」

を持ち出していないか。そこは混同していないとしっかり言い切れるか。

 「私だって当時は説教を聞かなかったが、今となってはよく分かる」

なるほど、だから今私が説教をしているのも意味がある、と。ただ、よく考えてもらいたい。物事の順番は、

「説教されて、間違いに気づく」

だったのか、

「間違いに自分で気づいて、説教がそれに関連していたことを思い出す」

だったのかを。後者だったのではないか。気づいたのは自分であり、説教によってではなかったのではないか。説教の言葉は、ただ関連するからという理由で後々思い出されただけなのでは・・・。

 もし説教が意味を成すと言うのならば、人が自力で気づく前に、説教の言葉が逐一思い出されていなければいけないはずだ。しかし、人はそんな気づき方をしているか。あるとき、ひとりでに気がつくのではないか。

 説教は何のためにあるのか。人がひとりでに気づいた後に、関連していたことをお知らせして、それが何になろう。説教する側の自己満足にしかならないのではないか。