何かの問題にぶつかって、
「分からない」
と言うのならともかく、ぶつかる前から分からない分からないと自分に言い聞かせ(もっとも、本当に分からなくなっている場合がほとんどではあるが)、問題に、あるいは答えにぶつかる前の下準備を済ませているのは、
「もう一度、改めてそのことに驚きたい」
からである。
もう一度、何も知らない状態へと意識的に戻り、それを初めて見る子どものように、新鮮にその問題にぶつかり、もう見えきったと思っている慢心を外した上で、それに新たに出会い直したいからである。そして、そう決心すると本当に、既知の事柄に新しく出会えるから不思議である。
また、いい大人が、
「分からない」
「愚かなもので」
「門外漢なので」
と強調するのは、新鮮に驚き直すために幼児帰りするということの宣言でもあり、また免罪符でもあるのだ(ただ幼児帰りするのじゃない。驚くために帰るのだ、というように)。