使用の発想

 よく、親が子どもを殺したなどというニュースが流れると、

「何故可愛いわが子を・・・」

などという声が上がるが、それは親が、

「使用の発想」

に立っていたのだと考えれば、別に不思議とも何とも思われなくなってくる。

 例えば、私などは、子どもを迎え入れるという行為は、

・子どもの事前の同意がない(というより不可能)

・子どもの希望にかかわらず、社会の一員であることを強制される

・社会の一員としてふさわしい人物になるよう、公然と子どもに対する恫喝が行われ、矯正が施される

・少しばかり道を外れただけで、まるでこの世の終わりかのような嘆かれ方を親にされる

・これだけの理不尽に囲まれているにもかかわらず、親に感謝できない奴はろくでなしだとみなされる

などの諸々の点から、どう考えても暴力であるという発想に立っているので、子どもが気に食わないから殺すなんていうことは絶対にあり得ない、とんでもないことだと考えているが、かたや、

・自分たちの幸せの為に

・老後の安心の為に

・ステータスの為に

・自分の為だけに生きることの重みから逃れる為に

という使用の発想で子どもを迎え入れている人たちにとってみれば、子どもは自分たちが満足を得るための道具なのであって、一個人ではないのだから、道具がその用途を満たさなくなったとき、それを破壊するのは当然だと考えているのだろう。こういう発想の人が子どもを殺すのは必然だろうという感じを受ける。

 またおそらく、

「子どもの幸せを云々」

などという欺瞞を口にしながら、使用の発想に立って子どもを授かっている人が実は大勢いると思うが(というより、使用の発想に立っておらず、それは暴力なのだという発想に立っていたら、子どもを持つことが怖くて仕方がないはずである)、多くの人はただ社会的制裁を受けるのが嫌だという理由で、用途を満たしてくれなかった道具に対する憎しみを隠しているだけだろう。