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「肉体を制御すること」と、教えるともなく教えられている

結婚など

 訪れるタイミングに多少のずれこそあろうものの、大体が皆小学生時分に、

「友人を好きなのとは別に、異性が好きという気持ちが起こってくるが、その変化にあまり自分自身で気づけていない」

という一瞬間を経験しているものと思う。

 今思い返すと、恥ずかしいやら馬鹿馬鹿しいやらだが、その当時は、この感覚は何なのかということに気づけていなかったから、用も無いのに気になる子のもとへ近寄っていっては、当然のごとく、

「何?」

と言われて、

「え?何だろう?」

と、自分でも自分の行動がよく分からず戸惑っているということが多々あった。

 そしてその際、こちらが好意を寄せて近づこうが、相手の心がどこかへ行ってしまっていて、取り付く島もないような状態だと、こちらとしてはもうそれ以上どうしようもないということを経験して、

「物理的に接近していることは大した意味を成さない」

ということと、

「相手の肉体を自分に縛り付けておくことが、その人と繋がることではない」

ということを、小学生ながらぼんやりと学んだのだった。

 

 さて、小学生からまた少し時を経て、中学生高校生となったとき、一般的な恋愛形式として私の前に出現してきたのは、

「双方的、あるいは一方的な肉体の制御、束縛」

であった。

 私は戸惑った。あまり意味を成さないと直覚していたはずの肉体的接近が、両者の関係の継続如何を握っていることが不思議だった。

「俺の彼女にあいつが近付いた」

とか、

「どうやら他で肉体関係をもったらしい」

というような話が、両者の関係に大きな動揺を生むのだということを、あまり理解できないでいた。

 彼氏ではない他の誰かが彼女に近づいたとして、どこか他で肉体関係を持ったとして、心ここにあらずだったのならば、別に彼女は彼氏のそばから離れてはいなかったのではないかという疑問や問い自体の、一切が考慮の外で、顧みられてすらいないことに驚いた。

 いくら物理的に接近していようが、相手の心がそこに無ければ、実際にはひとっつも近づいていやしないのだという直覚を、私だけが得ていたはずはない。あれほど分かりやすい切なさというのも他に無いからだ。それでは、成長したのち、

「肉体を制御すること」

こそ常道だと教えるともなく教えられ、大人の模倣を始めたとき、その直覚は忘れられたのか、それとも意図的に捨てられたのか。相手が何をしているのか逐一監視して、常に物理的に自分が相手の近くにいさえすれば安心だと決め込んだ人たちには、

「物理的に接近しているからといって、相手の近くにいるとは限らない」

という事実はどう映っていたか、そもそも映っていなかったか。

 

 いつの時代の、何という本の話だったか、残念ながら忘れてしまったのだが、死んだ恋人の身体をいつまでも傍らに残しておいて、あるとき、その亡骸に口づけをしたら、あんまり臭いがきつかったのでそれに耐えきれなくなり、そこでようやく恋人の身体から離れる決心がついた、というような話があった。これは極端な例ではあるが、根っこのところは、相手の肉体を束縛して安心を得るという、ごく普通に行われている行為と何ら変わるところがないと感じたのだった。