「意味がある」も「所詮無意味」も同じこと

 少し前のこと、例によって気持ちが閉じていたので、思考は、パターン化した、

「どうせ何をやっても無意味だ」

というルートを辿って行った。また、そういう本を読んで慰められてもいた。

 しかし、その後気分が好転し、調子が良くなっていったことで、

「所詮無意味だ」

という思考は、慰めであるという点において、また、意味にかかずらっているという点において、

「人生は素晴らしいし、生きていくことには意味があるんだ。落ち込んでいたら可愛くないぞ! 笑え、自分!」

と基本的には同じだということに気づけた。

 つまり、

「自身が落ち込んでいる」

という状態に対する、励まし方の好みが違うだけの話で、また、一見すると、

「意味がある」

と、

「無意味だ」

は全く逆のもののようなのだが、意味というありもしないもの、つまらないものにやたらにかかずらっているという視点からみると、これはどっちにしろ結局は同じことだと言えることに気がついたのだ。言うならばこれは、同じ場所に根っこを持った針同士が、たまたま逆の方角を指しているに過ぎない。

 何故そんなことを言えたかというと、調子が良いときには完全に、意味の世界から抜け出していて、

「意味だとか無意味」

だとか言ってやたらにかかずらっていたものは、ひとつの幻想だったと気づくことが出来たからだ。別に意味も無意味もないところで、人間は愉快に生きているという事実が、意味に(あるいは無意味に)執着する滑稽さを示してくれた。