気がつく範囲、方向

 以前どこかで、気の使えない人というのは厳密にはいないんだ、ということを書いたが、遡ってどこでそれを書いたかを確かめるのが億劫なので、そういうことを確かに書いたはずだという前提のもとで、先へと進みたい。

 世で言うところの気を使えるだとか使えないだとかが、私の目に非常に奇妙で曖昧なもののように映ってくるのは、おそらく、

「気が使える」

と言われるときの意味を、勝手に狭い範囲に限定してしまっているからで、つまり、その場にいる多くの人たちが、共通して誰かの成果をハッキリと認識出来た場合にだけに、

「気を使える」

という言葉を充てていると、それ以外にも確かに存在したであろう無数の気遣いが、そこからこぼれ落ちてしまい、その結果として、本当は気を使える振舞いを次々に繰り出していっている人たちが、

「気を使えない」

と評される場面が増え、それに出会っている私が奇妙を感じるということが起こるのだろう。

 もちろん、誰の目にも明らかな気遣いを無用のものとして扱いたい訳ではない。それらも大事なことであるについて疑いはない。ただ、それだけを気遣いだと持て囃し、大勢の目には触れにくい(多数の側から見れば些細な)気遣いを、本当の気遣いではないかのように、あるいはそうだとしても価値が低いものかのように扱うことは、数の多さを安易に正しさと結び付けて安心を決め込んでいる末の怠慢だと言わざるを得ない。社会は、

「わたしとあなた」

が出揃ったところからもう既に始まっているのである。*1

 その場全体には影響を及ぼさない、大きな成果には程遠い、たとい1対1の間での気遣いであっても、成果云々で日の目を見るところのそれと等しく大事なものなのではないだろうか。

*1:嫌われる勇気P.181参照