遊びの存在感は増していく、はず・・・

 どうしても、子ども時代と比べると、遊ぶのが下手になったということを思わざるを得ない。下手になったとはどういうことかと言うと、それは別に、遊びの内容、種類が貧弱になったということではなく、遊びというひとつの在り方に対する、準備体制の盤石さが次第に失われ始めてきている、ということを指している。

「隙あらば遊んでやろう」

という勢い。

「何をして遊ぼうか」

とは考えるが、

「何故遊ぶのか」

などとは考えない素早さと柔らかさ。こういうものが徐々に失われてきているのを、

「遊ぶのが下手になった」

と評している。

 それは、大人へと成長していく段階で、だんだんに遊びがそこまでは必要じゃなくなってくるからだ、といったような推論は当たらないということを以前にも書いたが(『遊びと気持ち』)、では何故、大人になった今でも依然として遊びを切に必要としているのにもかかわらず、遊ぶのがだんだん下手になってくるのだろうか。

 私は、おそらく、

「人間は、遊ぶべく生まれてきた存在なんだ」

ということを、どれだけ信じて疑わないでいられるかということが、ひとつそれに大きく関係してくると思っている。子どもは、これを信じやすい。

「遊ぶことが仕事なんだから」

などと周囲からも言われて後押しを受けているので、自身に最初から備わる遊びの衝動を無理に捻じ曲げたり抑え込んだりする必要がないからだ。しかし一方大人は、成長するにつれ、本当はそんなことないのに、遊びは余暇に行われる一種の無駄事で、仕事の合間の休息としての価値ぐらいしか持っていないという考えを、外からも内からも採用するにつき、胸の中にある遊びの衝動をそれに沿うように無理に捻じ曲げるようになるから、何か、一種の後ろめたさを抱えながら遊ぶようになり(「こんなに遊んでていいのだろうか?」とは、主に大人の台詞である)、そして、その無理やり捻じ曲げてしまったが故に開いた穴から、『「何やってんの?」という目線』が侵入するので、とてもじゃないが人間が遊ぶべく生まれてきた存在なんだ、なんていうことがついに全く信じられないようになる。自分のダンスを自分が冷めた目で見てしまうからだ。

 「人間が遊ぶべく生まれてきた存在な訳ないだろ」

と思う人もあるかもしれない。しかし、

「遊ぶべく生まれてきた」

というのは、何も、仕事や何やらが必要ないということではないのだ。何が中心に据えられているかという話である。例えば小学生のころ、受けなければならない、それこそ義務である授業に参加しながらも、休み時間までのカウントダウンで時計とにらめっこをし、はやる気持ちが抑えきれずに半ばは椅子から腰を浮かせながら貧乏ゆすりをし、チャイムの音とともに校庭へと飛び出していったときのことを思い出してほしい。40分の授業と授業の間に挟まれた中休みの20分は、客観的な時間の長さ関係をものともせず、中心をなしていたはずである。それは、自己の存在の中心基盤が遊びにあったからこそ為せる業である(もちろん、客観的な時間の長さも、大人になって後遊ぶためには必要になってくるのだが)。

 それに、文化とか文明、時代の流れといったものは、そういった遊びの衝動を無理に捻じ曲げないまま保持しようとする工夫の下に動いていっているような気がするし(昔に比べて子どもでいられる時間は徐々に長くなっているだろう)、また、その方向に進むべきであるとも思っている。

 そうすると言わずもがな、遊びの存在感は、大人と子供との別なく、間違いなく増していくはずだ。もちろん、大人になれば子どものときのように年がら年中遊ぶ訳にはいかないだろうが、それでもなお、増す存在感を受けて、遊びを中心に据え直すことは出来るはずである。