嘆き、嘆息に触れる

 私のように、社会との関わりをごく狭く限定している者であっても、生きていれば様々な人の嘆きや悲しみの声に触れることになる。しかし一方言葉というのは不思議なもので、例えば、本当に悲しいとは思っていなくとも、

「悲しいなあ・・・」

と言うことが出来てしまう。だから、実際に触れてきた嘆きの言葉の多さとは裏腹に、私が芯から共振出来た回数は結構少なかったりする。

 言葉の上では嘆いて見せていても、その奥にあるのは実は喜びだったり、陶酔だったり、自慢だったり。そういうのはすぐに分かってしまう。誰しも経験していることだろう。話される言語の奥にはちゃんと、体系など持っていない母語というのが潜んでいるから、いくら見せかけで嘆いても駄目なのだ。こういった、言葉の上だけでの嘆きに触れたとき、私はスイッチを切られたロボットのように、何の振動も覚えない。

 その代わり、話される言葉と母語とが見事な一致を得ている場合、また、

「ああ・・・」

とか、

「ねえ・・・」

などとしか発話していないのに、それに伴う目線が、仕草が、憂いのそれを含み切れずにこぼしてしまいそうなのがこちらにもひしと伝わるとき、何も感じなかったところへきていきなりバーンと弾かれたように、振動が甦る。その人との距離を回復する。

 皆、照れもあり、極力そういったものは見せないよう踏ん張っているところもあるだろうから、こういう機会に巡りあうことは実に少ない。