暗闇の中に、ぼうっと唇が浮かんでいる。こんな暗さで、唇だけがハッキリと姿を現しているのはおかしい。しかし、それは鮮やかに輝くというのでもなく、鈍く光っている。

 見ているうち、これは立って眺めている景色なのか、それとも寝そべって眺めている景色なのかが分からなくなってくる。そもそも、ここはどこだろうか。家の中にしては、空気が違うし匂いも違う。唇は軽く振動し、フッフッと細かな息をふたつ吐いた。

妙だ、とわざわざ考えてみるのも馬鹿らしいくらいに、掴める出来事が何もない。怖いという思いも、好奇心も湧かず、ほとんど無心に近い気持ちで唇を眺めていた。唇は、照れたようにこちらの視線をサッと受け流した。

 「どうして唇だけが見えているの?」

これは当然の疑問のように思われたが、おかしなことに、それは何故だかこちらが問われているような響きを持っていた。

 どうも出鱈目だと、思い切りうんと力を入れて、唇に勢いよく接近を試みる・・・。唇が息を呑むのが分かった。下唇に指を添え、そのまま右から左へ、ザーッと撫ぜるようにすると、その流れに合わしたように、唇はその端から順に鮮血を迸らせ、滝のように流れたかと思うと、そのまま消えてなくなっていってしまった。