客観的状況ではない 基準はない

 悲惨から掬い上げようとする(自己をあるいは他者を)試みは高尚かもしれないが、悲惨は客観的状況ではないので(悲惨が完成するように見える、いかなる条件が揃っていたとしても、当人がその中で充分に自足していたら、それは悲惨とは言えないのではないか)、悲惨の基準を設けることは、ともすれば傲慢にもなりかねない。

 空いている時間に、ひとりでいること、図書館や本屋にいること、家で惰眠をむさぼっていること、食卓を他の誰とも囲まないこと、そしてそのまま歳を取っていくこと等々、これら全てにつき、当人の心情に関わらず、状況だけで悲惨だと決めつけ、あらゆる人間はこういう状況にあってはならない、救ってやらねばならないということになり、半ば強制的に人の集まる場所へ引っ張られていくようなことでもあったりしたならば、私は暴れるだろう。そして間もなく、やむを得ず国外に逃亡するだろう。もし、世界全体がそういう方向に動いていたら、逃亡をあきらめてこの場で死んだ人のようになるか、実際に死んでしまうかするだろう。