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軽さが真実?

 見ていてとても興味深いなあと思うのは、今まで独り身だった人間が、パートナーを見つける、特に、結婚して子どもが出来たりすると、独り身の人間に対して途端に傲慢な態度を取るようになったり、その失礼さには、舞い上がっているためか、全く気づけていないことがあったりすることだ。

 よほどの快楽なのか歓喜なのか、先程まで自分が身を置いていた場所からの浮上、身の軽さが嬉しくて仕方がないといった様子で、それ自体は無邪気ですらある。

 だが、そこに留まらず、今度は、孤独だったときの自身の重さ、空虚さが思いだされるのか、

「なんでわざわざひとりでいるの? 子どもが出来たら本当に幸せなのに」

とか、

「ひとりで生きているときって、本当の人生じゃないっていうか、子どもっていう、自分より大切な存在が出来て初めて、本当に生きているって感じだよね」

などという傲慢な言葉を吐き始めたとき、その無邪気さは一気に醜悪へと転落する(もちろんそこには、自身が自身の重みにひとりで耐えきれなかったばっかりに、生の重さの大部分を子どもに委ねた醜さも追加される)。

 ひとりでいることに、本当は耐えられなかったんだ、とは正直に言えまい。だから、独り身の人生は、

「本当ではない」

人生だと決めて、逃走に似た転身を、(ありもしない)本当への昇格だと自身に錯覚させるのだ。それは、自身の身の軽さがしっかりと証明してくれているように思える(しかし、先程も言ったように、身の軽さは「本当へ」と辿り着いたがために得られたのではなくて、子どもに生の重さを大部分委ねたがために得られたのである。このことから、程度の差こそあれ、親というものは子に対して鬱陶しくならざるを得ない)。

 しかし、一体誰が、人の一生を本当であるとか本当でないとか決めることが出来よう。どの一生も、本当とか嘘とかではない、そのままの一生なのだ。孤独に耐えられなかったのなら、黙って道を変えればいい。子どもにその大部分の重みを背負わせたことを、しかと認識していればいい。黙って移動すれば、誰も責めはしないだろう。本当の人生ではないなどという、欺瞞を口にしなければ・・・。