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誰にも必要とされない方向へ進むこと、自由

 『不要論をつめていく怖さ』で書いたことに関連して、人間を必要か不要かで判断するのは、道義的な問題もあるだろうが、そもそもがナンセンスである。何故なら、つまるところ人間は、全員不要だ(必要か不要かで存在している訳ではない)からだ。絶対に必要な存在ならば、死んだあとでまたすぐに復活して戻ってこなければならないはずだし、戻ってこれないのだとしたら、絶対に必要な存在が不在ということになるのだから、その時点で地球など滅びてしまわなければならなくなるはずだ。

 しかし現実には、ひとりの人間が死んだところで復活して戻ってくることもなければ、戻らなかったばっかりに地球が滅んでしまうなんてこともない。どこの誰をとっても全員が不要であると決まっているところへ、必要論あるいは不要論を振りかざすのは野暮というものだ。

 さて、全く必要がない存在であるということは、即ち自由な存在であるということをも意味するだろう。追い求めるまでもなく、生まれてから死ぬまで、人間は自由であり続ける訳だ。そして、

「自由≒必要な存在ではない」

という事実に、皆、程度の差こそあれ耐えきれないから、進んでありもしない義務やしがらみを作り出すのだ。しがらみや義務を嫌悪する表情に、恍惚の光が差すのはそのためである。

 また、しがらみや義務を追い求めても埋まらない虚しさに対する反動なのか、自然な欲求なのか、徹底した自由に還りたいという衝動が、一方では身体を突き上げている。

 しかし、実際にその衝動を、執拗に実行に移していく人はほとんどいない。むろん、それが悪いと言うのではない。誰が、

「自分は別に必要な存在ではない」

ということを、深いところで確認する方向へ、あえて歩を進めることを望むのだろうか。極限まで自己の根本へと還ろうとする動きは、もしかすると破滅をもたらすかもしれない。

「もっと自由を求めよう」

という、一見すると美しい言葉は、ともすれば害悪にもなり得る。他人を巻き込んではいけない。自由を求めよ、と呼びかけるのは自分に対してだけでなければならない。そうせざるを得ないという状況になければ、別にわざわざそこを目指す必要はないのだから。

 しかし、これでもかというところ、自由の深部まで潜っていくことは極めて難しい。誰かを必要とすること、誰かから必要とされることをも捨て、世を離れて完全に自由を得たつもりの仙人でさえ、訪ね人に、

「ああ、あなたが・・・」

と感嘆の声を洩らされ、褒められれば、内心で笑みを浮かばさずにはいられないだろう。