悲惨

 悲惨というのは、あるひとつの立場を指すのではなく、個人的な感覚を他者の感覚の上にまで拡大適用し、あちらこちらで勝手に憐れみ合っていることを言うのではないか。

 自足できるかどうかは外部の状況と必ずしも関係しない。よって、大多数の他者が、どう見てもこれは悲惨だろうよと満場一致するような状況の中にあって、

「おお、びっくらこいた!」

ぐらいのことしか思っていない、つまりその状態を悲惨とも何とも思っていない人が存在することはあり得る。そこへきて、普通に過ごしているその人に向かって、

「分かるよ、うんうん分かる分かる。本当は辛いのを隠しているんだよね。」

「辛いのに、そういう素振りも見せないで健気だね。」

と、自己の感覚を勝手に当てはめだす人が出てくる、その何とも言えない無理解と距離感の中にこそ悲惨はあるのではないか。

 悲惨さについて、手前勝手な感覚や基準があるのがおかしいと言っているのではない。私も、何故かは分からないが、どんな大事故や大事件の被害者よりも、何かを健気にメモしている普通の姿の方に悲惨さを感じてしまうことがある。理性では、そんなこと何でもない、病気で記憶に障害があるとかいうならまだしも、別にそういうことのためじゃなく、普通にメモをとっているその姿の、一体どこに悲惨があると言うんだ、誰でもやっていることじゃないか、と思っているのだが、どうしても、ふとメモの痕跡なんかを見かけると、悲惨だという気持ちで胸がいっぱいになってしまう。感覚的なものだから、理由はよく分からない。

 こういう事例なら、もしその感覚を他人に押し付けたりしたら頓珍漢なことになるよと比較的すぐに分かってもらえるだろうが(自分でもそれはよく分かる)、大事なのは、どんなに外からは悲惨に見えることでも、他人は、それほどでもないと思っている可能性があるという方の話で、その勝手な悲惨感覚の押しつけが、逆に悲惨を生んでしまうということを常に意識し続けねばならない。こちらは、目に飛び込んでくるものがショッキングなだけに、そういう姿勢を忘れないでいるのが難しい。