蓄積

 危機、破綻の予感は突然走るもので、それは常々蓄積してきたものの発散としての光に拠るのではなく、予感と同様、いきなり現れた閃光に拠ってなのだと思われる。

 私は、食器を机の上に丁寧に並べ、食事をするだろう。テレビに映る画像は楽しげで、思わずつられて笑みをこぼすだろう。そういうとき、何の前触れもなく突然、全てが終わったように、破綻したように感じる。何が終わったという訳でもないのだが。状況的悲惨さは何もないのだが。

 その一瞬に例えば、完全な優位を占められてしまえば、そこで本当に(本当にというのは、死を含むということ)終わってしまうこともあるのだろうな、と思うと、怖いというよりはぼんやりとしてしまう。その死は他者にとってどこまでも不可解だろう。また、不可解を解決するために、状況的悲惨の証拠が掻き集められるだろう。しかし、やはり蓄積ではなく、そこのところの一瞬の光に眩惑され、完全に乱されてしまったということを前にして、過去にどういう苦難があったからとか、未来にこういう楽しいこともあっただろうに何故、というような疑問を持ちこんでも仕方がないようではある。