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多数決

 正しさとは何か、正しさは決まるか、みたいな話をやっているといつまで経っても決まらないから、便宜として多数決を使う訳であって、その効用を否定するのではなし、悪い方法だと思っているのでもないのだけれど、あくまで便宜は便宜であって、それを正しさといっしょくたにして考えるのは無理があるのではないかという話。

 例えば、A、B、C、と3人居て、抽象的な議論をしている。甲なのか乙なのか。AとBは甲だと言う。Cは乙だと言う。この結果によって、3人がこの場で、甲の方がより確からしい、有力であると結論付けるのは、便宜としての多数決に慣れ過ぎた弊害のように思える。

 ここには、Aは甲だと思った、Bは甲だと思った、Cは乙だと思ったというバラバラの事実があるだけで、AとBがともに甲だと思っているからといって、それを積み重ね可能なものに変換し、乙より上に位置づけることはできない。Aが甲だと思ったことと、Bが甲だと思ったこととは、同じ意見でも別のことなのだ。それは量に変換できない。

 では、正しさはどうなるのか。どうなるも何もそんなものはないからどうしようもないのだが、ただ、この人はこういうことを思った、そして思わなくなった、私はこういうことを思った、そして思わなくなったという推移、自分を含めたひとりひとりの思考の動きに、緊張しながら辛抱強くついていくことが大事で、これをしっかり便宜の裏にくっつけておいた方が良いのではないかとは思っている。