<24>「渇いている場所を信ずる」

 遅刻しそうになって、などなら経験したこともあるが、人生において、つまりどう生きていくか云々であまり焦ったことがない。というより、あんまり鈍くて焦る能力がないだけかもしれないが。こういうときの焦りはおそらく、

「何かの為に」

という思いから来ているような気がする。そう、為にということが上手く捉えられないのだ。でも、捉えられないのが自然だという気もする。為にというのは、自己への説明であり、他者への説明であり、つまり社会へのポーズなのだ。それは、どう頑張っても後付けにしかならない。

 私を激しく捉えるのは渇きであり、その渇きによって衝動を覚え、その衝動があれやこれやの形を(結果的に)取るだけであり、そこに説明の入る余地はない。もっとも、社会の方ではその説明こそが重要視せられているのだが(変だとは思うが)。プレゼンテーションが持て囃されている国なんて、生き辛くて敵わないだろうなあ・・・。きっと、絵を見ないのだろう。飾って、自己に他者に示せればそれでいいのだろう。

 為に為にと後付けで枠組みを作っていくことはどうも苦手である。衝動で動いてばっかりいて、めちゃめちゃにならないかという危惧も、僅かながらあるにはあるが、まあ錯乱状態は別におかしな状態でも何でもないし(めちゃめちゃで構わない)、それ以上に私は、身体や、意識で関われないような部分で起こる渇きなどを信用しているので特に問題はない。