<33>「他人の道具の異質さ」

 他人の自転車に跨ったときほど、強く他者の異質性というものを感じる瞬間は無い。サドルの位置も適当で、漕ぎ出すのに苦労するという訳でもないのに、細部のひとつひとつが、いちいちしっくりこない。やんわりと拒絶されているような気分だ。道具というものは、その人そのものよりも強くその人を表してしまう。同じ自転車なのに、どうして自分のものと他人のものとで、こうも決定的に違ってしまうのか。また、他人のものでも、しばらく乗っていて慣れてくれば、なんとなく自分のもののようにしっくりくるようになってきたりする。私が近づいたのか、それとも・・・。

 逆に言えば、道具(しかも他者の道具)に触れてみないと、他者の異質性というものは意識しづらいのかもしれない。あなたと私は違う、言葉ではそう言う、しかし、誰もがそう言う。それは、同じではないか。私は、私の顔と人様の顔とを見間違えたりはしない。しかし、他人の表情というものを確かに異質なものとして受け取っているかどうか。怪しいものだ。平気で表情を寄せたりしている。違和感がない(あるいは少ない)。その点、道具は圧倒的だ。

「あっ違う」

という言葉が必要ない。必要ないぐらいに全然違う。気持ち悪い。この範囲内に確実に馴染みがない。自分がどこか違うところからやって来たと感じさせられる、あるいは他者がそう。そういうことが強烈に私を掴む。こういうことは例えば、全く同じ商品でも起こる。形から大きさから何から全てが同じコップでも、使っている人間が違うと、結果的に全く違ったもののようになる。