<36>「動的な一日」

 全部が動きであるということが、どうして否定されなければならないのだろう。刹那的であるとか、無意味に傾くとかが、どうも悪いもの、情のないものとして見られていることに違和感を覚える。常のものと何ら変わるところのないように見えたものが、瞬く間に姿を消してしまい、それでいて一方、こちらの気持ちとは関係なく、空は晴れ、夜は更けてしまうこの運動の強さ、無意味さに、私たちは涙するのではないだろうか。

 あることでひどく思い悩んだり、そんなことはどうでもいいことだと言ってみたり、同じ問題を何度も何度も解決してはまた引っ張り出してきて取っ組みあってみたり・・・。意味や説明の側から捉えようとすれば、全く訳が分からなく見えるものも、全部が動きなんだと分かれば納得することが出来る。であるから、ここを省きたい、ここを増やしたいと思ったり、それを実行に移してある程度の成果を得ることは出来るだろうが、動きは要不要を超えたところのものであるから、煩わしいと思っても、全く無しにすることは出来ない。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、結局大して移動は出来ないのに馬鹿々々しいと思うかもしれない。けれど、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしなければならない(しなければならないとわざわざ思わなくとも勝手に動くのだが)。