<55>「重さが過ぎるのを待って」

 誰より自分が、一番よそよそしかった。確かに気持ちを昂らせてはいる。しかし一方で、これでもかというほど冷静だ。いや、冷たいとかいうような、温度すらない感じで、抜ける前からそもそも抜けていたというのが適切だ。これがいわゆるところの技術か、という感慨に耽ろうとすれば耽られるのだろうが、なんとも味気ない。習得した後にむなしくなるのは、もう常識と呼んでも良いことだ。

 決して浮遊することをやめない。それは遊びだが、本人はいたって真剣そのもので、そういうものに出会うという経験が初めてだったが、この人が誠実で、静かに崩壊しているのだということ、温度は内側から感じられる。脈絡のない技法、いや、忠実な生の模写を見て、それは生ではないと、大抵は斥けられて終わりだ。しかし私が、この人を見ていて、訴えていることは難解で、ごく普通のことで(意味の頭で見ようとすれば、それは難解であることをやめない)、きっと私はこういう手紙を出して、ふむ・・・と、何も伝わっていない中に、ほのかな熱だけが隙間を通ってかろうじて伝わっていった痕跡を見留めて(それは想像したのではなく、確かにこの目で見たのだ)、別に喜びもしなければ、ブルブルと震えることもなく、なるほどと静かに納得するのだろう。

 10年生き続けることは何でもない。振り返ってしまえばそれ程のものでもない。そうではなくて、瞬間の移りだ。

「あんなに陽気だったのに・・・」

次の瞬間の苦悩にやられてしまった。あんなに陽気だったのだから、しばらくは大丈夫だろうという予測があるからこそ、のにが続く訳だが、その瞬間の全的な重さを前にしては、その、たった一秒前の陽気さですら無力だ。見事苦悩の瞬間を越えた場合に、後になってから、

「陽気さに属する思い出がいくつかあったから、何とかなった」

と回想してみせることは出来るが、それは紛れもなくただの後付けであって、実際は、どういう訳か苦悩の重さが去り、次の瞬間へと移れた、という解明し難い(もっとも、掘ったところで謎などないのだが)謎がここに残されるだけである。怖ろしいことではないか。その一瞬を前にして、とても耐えられないような一瞬を前にしては、過去の蓄積などというもの、繋がりなどは何らの助けをも為すことが出来ないというのは。嵐が過ぎ去るのを待つしか方法がないということは。そういうときは横になるしかない。