<62>「むしめっし」

 無私だとか、滅私だとかいうことを伝えたとき、それが苦し紛れであったことに胸が締めつけられるような思いがする。私が掴んだものはそんなものではなかった。言葉にするということは物凄く範囲を限ることだった。無私だとか滅私だと書いてはいる、言ってはいるが、まあ待ってくれ、俺が言いたかったことはそんなことではないんだ(勿論、そんなことも含むのだがな)。お前も分かるだろう? 自分を去るとか、他人の為に尽くすとか、それが大事でないとは言わないが、ある一瞬、ふわっと、しかし確実に、何者かが私を捉えて(私が捉えた?)、間違いなくこの場を違うものにした瞬間を、お前は肌で感じただろう?

 しかし、本来そのことを、誰が間違えることがあるのだろう? 椅子によりかかって、諦めたように笑い、お茶をズズと啜るその姿をそのままに捉えたとき、誰がどうやって誤るというのだろう? いいか、決してそれを言葉にするな、ずーっと最後まで。そんなことは無理だと言うなら、延々と回り道をした末に、言葉を尽くして何度も何度も間違いの足跡を刻みつづけた上に、何かしら朧げなものが立ち上がるように(むろん、そんなものは立ち上がらなくてもいい)。やはり俺は身体だから、動かない訳にはいかないし、間違いをやめることは出来ない。だから、何の音でも無くなってしまうぐらいに、いろいろなことを語れ、度を失え、ねえ、あの人は何にも喋っていないのね、耳から侵入したものが黒く濁って、頭蓋をぎゅうっと締め出そうとする。いけないいけない、まだまだ語ることがあった、しかしいつまで? いつまでという時間の把握が間違いであることをぼんやりと掴んでいる、どこを掴んでいる? 胸ぐら、肘の裏。

 別の人がやってきたことに、私が帰っていってどうする? あの日に? 私はここからは動けない(動けない癖に、動こうとも思わなかった)。しかし、誰が無理をしている? 俺か、俺はお前の後だ。そんなことに怒っている? 怒らなければどうする、怒るしかないじゃないか? 考えた末のような顔をして、しかを使うんじゃない。そこは区切りたくて区切ったんだろう。どうだ。きっと私はとっくに浮いていて、喜びながらそのことを認めたがらない。何の涙だろう、寂しくはなかった、こわくもない。やっぱりそれは動きなんだ。実際に涙がこぼれなければ、それは泣いているとは言えないのだろうか。