<71>「不在、説明のなさ」

 不在が親しみあるものとして捉えられるのはどういう訳か。危篤という程でもない状態を聞き、急がねば、と著作へ向かう。はてな、生きているうちに読む必要(必要というものはない)というものが、何かを動かして・・・。それはひどく実在の様相を呈し、今まさに不在も不在へ向かわんとする苦痛の中に、これでもかというほどに現れる。くっきりとなると言えば良いか。

 固定してしまえればいいが、一度中断してしまうと、もう断念するよりほかはないのだから。ひどく変わってしまった、繋げようにも人が違うからどうしようもない。思い立ったが吉日、ではないが、ひと筆書きのようにそのままの勢いで、休むことなく続けなければ、固定されたものは表せない。流動、動きのままに任せ、散らばりたい放題のものを、それを品と呼び表せるかどうかそんなことは知ったことではない。

 知ったことではない。私は傲慢ですと言い切ってしまうことで、謙虚の端っこの方に、仲間に入れてもらうことに気兼ね。謙虚のフリなんてやめてしまいなさい。しかし、どうだろう。傲慢な者が傲慢であることを表明すればするほど、傲慢から離れようと、距離を取ろうとする気持ちがその人間の中で強いことに気づきやすくなる。黙っていて、何も語らないのに、

「あっ、あの人は傲慢ですね」

と、知らぬうちに指摘され、こちらはまるで気づかない(気づけない)、そんなところでどうだろうか。

 それであるところでどうということもないのだろうが、可愛げのないことが原因で嫌われていると思いがちな、もっともそういうルートが形成されて日も長いだろうから仕方のない部分もあるが。というより説明の不在、説明の放棄(だって、説明なんてないじゃないか)、そういうことをして平気でいる精神に自他が敏感に反応する。傲慢よ!いやだもう! 不安と無理やり一言で言えば不安なのだ。つまり、傲慢よ、説明しなさいよ、ということだろう。それがないと何の手掛かりもない。しかし、説明なんてないし、手掛かりなんてものもなくて、衝突するだけなのだ(結果的に溶け込むこともある)。説明があると思っているのならどこにあるのか教えてくれ。だから、無いと思っているのなら無いで良いのである。それによって嫌がられ、捨て置かれることになろうとも、それに対処して動き続けていけるのなら、別に説明なんてしなくとも構わない。