<78>「流れと止め」

 つまり、出来ないことによる屈辱感はもちろんのこと、何故か出来てしまうことに対する違和感、嫌悪感というのが発生することも有り得て、それは高揚感もあるだろうけれど、こうしてイメージは自由にどこまでも動いて、身体がついてきたという嬉しさ、また、身体がついてくると思っていたら本当についてきてしまったという不快、そうでなければ身体が先んじる、つまりイメージもしないのに動き得るという驚きが、喜びに接続されるばかりではないということ、倦怠、動かすのが億劫、不意に勝手に、自由にみぎひだり。怒りの波が、下がったけれどなくなっている訳ではないという状態。ふと途中で気がつかなければ如何ようにも動いて、しかしそれは骨格を無視するかもしれないという恐怖、あるいは乗っ取られているような気味悪さ、止めることこそ我であるという意識、つまり動き続けて止まらないものは私ではない・・・? 実は憧れている、なろうと思っているのかどうか、どうもそこまでは定かではないが、動き続ければ私ではない、私がないとはそういうことか、果たして記述はストップか、ストップの象徴、ストップの上で流れを重視するという背き方がいかに滑稽で面白くて不毛か。もちろん、何らかの価値というものを考えるから不毛という話も出てくるのだが、こういう背き方は快いか否か、どうして価値の問題、目的という問題がちらつき続けるのだろう、そんなものはないことがよく分かるのに。あるとしていれば拠り所として安心だからだろうか、しかしいずれにせよ、それも虚しい。