<95>「用と彼我」

 用の論理がこれだけ密接なことにイライラする。意味なんてないんだ、という語り方をしなければならない、これは不本意だ。虚しいこと、特に遊びが即ち虚しさでもあることなどハッキリと知覚していながら、何と虚しいのだろう、と感じることがある、これも不本意だ。一体一生とは何だったのだろう、という問いは失敗している、しかしその問いに頭を揺すぶられることがある、全部不本意だ。もしかしたら、こんなところからはとっくに浮いている人たちもいるのかもしれないが、少なくも私はまだ、用でしか人間を捉えることが出来なくなりつつある(完全にそうなっているのか? 子どもはまだ大丈夫だろう)、遊びが窒息しそうになりつつある状況に押されている、それだからしつこく遊びを言って身体構造を変容させようとしているのだが、残滓といってしまうにはあまりにも多すぎる用の塊がいまだこちらを窺っている。それでもだんだんに中心をずらされ流されながら回転する渦、湧き立つ泉のようになりつつあり、見失おうと努力しなくとも用を見失うようになってきた。ともあれ、変容する身体をどこか遠くから見つめる、それ以前の身体にも乗っていた穴、無思考のその穴、穿たれた穴、脳の近くにあると勝手に思っている(意識する以上、そこいらへんにあるように思えてくるのは仕方ない)、その穴、何も持たないその空間こそ私であると言っていいだろうか、記憶もない、しかし記憶を通しはする。結局、他とは隔たる個体であることは一番の恐怖なのではないか、ハーモニイがきちんと構成されていて、ちゃんとその中に混ざれている、他者が軒並みそう言うのだから、間違いはないのだろうが、ただ、浮いている音、それは私の、私には分かるのだ、どうして混ざらない。他者の身体を獲得出来たらという願いも、その恐怖に発するか、しかし移ったところで慣れればまたそれは自分の身体だ、ひとつだけ浮き上がって見えてくることは間違いない、浮き上がっていないように見えたからそこに移ったのに! 隣の芝はきちんと地面にくっついているように見えたのだ。友達が持っているのと同じゲームを手に入れたときの、これじゃないという感覚、どうして私が持つとこうなる? 皆それは同じだよ、という教え、千年前の人も万年前の人も、これからの人だって同じことで悩むんだよ、そうだろう、だから大丈夫だよ、そうではない、客観視して陳腐であることを確かめたって、自己のなんとも言えない異物感に付き合っていかなければならないことに変わりはない、何故一番遠いんだ、他の人が考え終えていたら、その問題に関して私はもう安心、という訳にはいかない、身体を共有していないからだ。比較がどうやっても不可能であることが分かるからこそ、階級を渇望するのだろう、階級なんてとせっかく無くしても、勝手に他のところに階級を見始める、比較は不可能なんだ、身体を共有していないのだから、落ち着け、でもお前、階級は快楽だよ、こういうのを気にしていると、上に位置づけられようが下に位置づけられようが元気が出るよ、私は比較不可能性を目の当たりに見て元気をなくしている方を択ぶ。