<101>「独自の形を持っていた」

 あるべき理想の状態はこうだ、例えば愛がある、愛を解して、愛に溢れて、それが備わっていない人間には欠陥がある、それが分からない人間はダメだ、と、理想の状態、完璧な状態を想定してから現実の人間を減点で見る、そうやって理想で人をほじくり回すやり方は大嫌いだ。過去の人間を捕まえて、この人は確かにいろいろなことを成したかもしれないけれど、理想的な態度や心を備えていなかった、だから欠落したまま世を過ごし、結局正解に辿りつかないまま世を尽くした、そんな乱暴な評があるか、人間の似姿とももはや言えないような、ありもしない正解というものを定めて、そこを達成出来ていなかったからダメだと決める、こんな暴力はない、人間というのは動きだ、漂いだ、正解や不正解が決まるものではないし、その人には欠陥があったのではなくて、独特の形を持っていただけなのだ、それを大きな円で(しかもあり得ないぐらいに綺麗な円で)囲い、各々が持つ独特な形を、その、外側を囲う円まで届いていないところから欠陥だ欠陥だと言って回る、こんなのは人間の見方とは言えない。そして、大体この手の愛だなんだという問題で槍玉に挙げられるのは、中身が空虚であったということだ、しかし、空虚でないと確信を持って言い切れる人がどれだけいるか、自身を持って他人を堂々と非難して回れる人が(そんなのは出来たところで醜いことだが)、どれだけいるのか、それが錯覚でないと言い切れるか、それから、もし愛を解さない人間が空虚であるとして、それが悪いという話、欠陥だという話はどこから来るのだろうか、空であり虚である、これのどこが悪いのだろう、私にはまったく分からない。