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 全く信じていない、あるいはその意味を全く理解していないものでも、他人が熱心に、というより当たり前のものとしていれば、別にそれを乱すつもりはないし、どうしても破らないではいられないという訳ではないから、従っている、その破綻を明らかに示すような反抗的態度は取らない、これは、結局私も信じていることになるのだろうか、何だ、信じていないとか意味が分からないとか言いながら、あなたも同じように行動しているではないか、ということは何だかんだ信じているのね・・・。行動が全てだという話に疑問を持つのはこういうときだ、何をやっているかが全てだと、その内心がどうあろうと、行動として表れていることが・・・。果たしてそうだろうか、行動が全てだという話は、数多の物事が口だけで終わってしまうことに対する警戒感、侮蔑から来ているだけなのではないか(あるいは内心を推測しようとする努力の放棄)、つまり、必ずしも行われたことが全てだという話が正しいとは思わないということだ。全くそれに対して何の意味も見留めていないけれども、わざわざぶつかって壊すことは望まないでいるのと、熱心にそれを信じて疑わないから壊さずにいる、あるいは壊すということすら思いつかずにいるのと、全然違うではないか、外から見た場合には変わらないから、それは同じであるということで納得出来るだろうか?