<109>「完全に良くはあれない」

 同じ振る舞いでも、果たしてどちらなのかが分からない、それは傍から見ている他人が分からないだけでなく、当人も分からない、そういうことが、例えば、決して言い返さない、汚い言葉に汚い言葉で返さない、黙している、それは美徳といえば美徳だし当人だってそのつもりでいるのだ、しかしどこかで、そうしていると一番よく相手に汚さがはね返ることを承知していたりする、そうすれば相手が窮地に追い込まれるのを知っている、もちろんそれは投げつけた相手が全面的に悪くはあるのだが、ではその沈黙に傲慢の影がちらつかないかといえば、そうとも言えない、では汚さに対して僅かながらの汚さで微妙に反応を返しておくのがいいかといえば別にそうとも言えない、やはり黙っていた方がいいだろうという結論になる。何かの姿勢を保とう、良くあろうという努力に最初から傲慢は含まれていて、それはやむを得ないものなのか否か、美意識というものはどうしたって排除を含むような気もするが、排除でありえない美的体勢、それはもはや美意識としての形を成しているか否か、愛の推奨者、愛の讃美者は、それに適さないものを掬えない、憐れむか、軽蔑するかする、美徳の大家と言われるような人、そういう人に尊敬の気持ちを覚えながらどこかで胡散臭いと思わずにいられないのは、その奥の方の僅かな部分にずるさ、ずる賢さのようなものをかすかながらも感じてしまうからだろう、決してこちらに反発を許さないような優しい微笑み、沈黙・・・。しかし人である以上、そういう姿勢であるよう努めた方がいいだろうという意識もあり、あの人たちは間違っていると言うつもりはなかったりする。