<111>「忘れ難い強度で笑う」

 すぐ得体の知れないと言いたがる、異様である、そうかそうか、しかし冷静になって、ふと辺りを見回してみたときに異様でないものがただのひとつだってあるのか、物語にそぐうていなくともちゃんと揺れ動く、それは当たり前のことであって、そういう、物語から脱出するような、スルスルと抜け出すようなポーズをわざわざ他者にも自身にも示してみせねばならないのは、愛だとか肯定だとかいう筋道があんまり幅を利かせ過ぎているからだ、それらの一見素晴らしさばかりに身を包まれているようなけわいの背後に、目を怒らした鬼のような表情を見て取り、あまりの窮屈さに窒息しそうになる、それらの世界は狭すぎるのだ、そして、愛や肯定は必ずや憎悪と否定を呼び寄せる、いやむしろ進んで求めにいく、そんな狭い世界にくくりつけられていなくとも人は動く、踊る、忘れ難い強度で笑う。その限られた世界から見れば、そこからはみ出ている存在は愛や肯定を失った、「欠けた」存在にしか見えないだろう、異様である、しかし愛や肯定がなければ進めない(と思い込んでいる)ということもまた、言ってみれば別の異様である(つまり異様などと言い出せばキリがない、極端に言えば異様などというものはない)。その領域でなければ人間は人間でなくなる、であるからそこに留まりたい、というのは良かれ悪しかれ信仰だ、いろいろの条件を持ち出しておいて、それに該当しなければその人は人間であって人間ではない、とする(よくこういう表現を見かけるが)考え方は嫌いだ、曰く、生きているのに死んでいるだとか・・・生きていると判断する領域を極端に狭めて、弾かれる人たちを断罪していくこともまた嫌いだ、それだけ狭めているのだから当たり前だが、それはとても窮屈な世界観だ、その窮屈さの中で僅かながらも、「生きている」と判定された人々が本当に生き生きとしている、あるいはしていられるかどうかは怪しいものだ、酸素は少ない。