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 自分だけが良ければいいのか、というその、自分だけが良ければいいという状態(心の状態も、具体的な状況も含めて)がよく分からなかったりする。自分だけが良い状態というのを想定しようとしても、何だか全体の景色がぼんやりとしてきて、よく見えないし掴めない、それにおそらく、自分以外の他人が残らず、良くない状況、困難な状況に陥っていて、本当に自分だけが良い状態にいるというのは、これはもうきっと自分にとっても良い状態ではあり得ないだろう、では、自分だけが良ければいいのかとは・・・。自分だけが良ければとか、いや、世界中の人全員が幸せであれとか、そういうものは漠としていていまいちイメージしづらい、規模の点においてもそうだし(小さすぎたり大きすぎたり)、幸せという概念の点においてもそうだ、自分だけが良ければいいのだろという批難は、自身が気持ちの沈みのどん底にあるとき、周りの人が全員能天気で何の悩みもない幸せな人生を送っているように見えてきて、それによって、

「俺がこんなに苦しんでいるのにお前らは幸せな人生を送りやがって」

と叫ぶ、半ば被害妄想的な発露に似た色を持つような気がしている。

「あいつは自分だけが良ければいいと思っているに決まっている」

ように見えてくるだけであり、実際は批難する方も、もちろんされる方も、確たる、

「自分だけが良い状態」

というのは見えていないだろうし、見えていたとしてもそれを望ましいと思うかどうかは怪しい。

 何かこういうことは損得の観念が稀薄であることにもいくらか関わりがあるのかもしれない、自分だけが良い、もちろん、自分は出来ればこういう状態に落ち着くことを望むし、こういう状態に身を置くことが出来ればそれなりに満足だ、ということはあるが、ここに自分「だけ」という問題が入ってくると、どうしても得の考え、ここでは「だけ」だから独り占めの考えが生まれる訳だが、この場合、得を独り占めしたいなどと別に思ったことがないだけでなく、得を、つまりは良い状態を私のところにだけ集めることが出来るとそもそも考えていない、そんなことは不可能だと思っている、という問題がある。良い状態というのは(どうしても物が欲しいという場合は別だが)、物質的でないところで自前で生産できるもので、例えば、地球上に10個しかないと言われている特別な石があって、それが全部私のところへ集まってくれば、他の人は良い状態を享受することが一切不可能になるというような、良い状態というのはそういう目に見えて分かりやすいところで争われていたり奪い合われたりするものではないし、身体を共有していないので、他人が持つ良い状態、そういう状態にいる他人に対して妨害を企て、良い状態を挫くということは出来るかもしれないが、良い状態そのものを盗んでくることは出来ない、所有できないものだ。所有できないものを所有しようという熱情はない、熱情はないと言ったが、例えば全く本の文字が私の中で流れて行かなくなったとき、つまりは一時的に本が読めない状態になったときに、何が起き上がってきているかといえばそれは所有の観念で、つまり次々に新しい文字が流入してきて、前の文が外に追いやられてしまう、そのことに対する拒否の気持ちが強く動き出すと、本を読む目は止まってしまう、あるいは何度も何度も戻ってしまう。であるから所有できないものを所有しようとする熱情はないにしろ、そういった意識、無意識、雑念的なものはやはりあるのだということは言っておかねばならない。

 自分だけというのと独り占めが結びつくと書いたが、何か違和感があるような気がしてきた。そうではなくて、所有できないものを所有しようとする熱情、そういうひとつの混乱から遠ざかってほっと一息ついていることを、

「自分だけが良ければいいと思っている」

に並べて考えてみたらどうであろう、おそらく私がこれを言われるとしたら、独り占め的なニュアンスではなくて(例えば大富豪のおじさんに対して「自分だけが良ければ」云々と言っている人がいたとしたらそれは多分に独り占め的なニュアンスを含むのだろうが)、この脱落的ニュアンスの方の指摘だろう。つまり人物であれ、常識であれ、知識であれ、おそらく人間が所有できない、自分のものではないであろうものを、所有できるとまずは思いこむことから始めているのに対して、それを完全に放棄しないまでも、退屈そうに、胡散臭そうに眺めていること、その不参加に対する批難が、

「自分だけが良ければ・・・」

に結実しているのでは・・・などとまあもっともらしいことを考えてみるが冒頭で述べているように、自分だけが良ければいいのかという、その自分だけが良ければいいという状態がよくわからない以上、無理やりなんとかひねりだしたような印象は拭えない。

 言語の説明的側面が優位過ぎるのか、それとも私の意識がそうなっているのかどちらもかもしれないが、しかしある程度説明の様相を呈さなければ誰も、私すらも読むことが出来なくなるかもしれないのであって、言語の脈動的側面を全面的に打ち出すというように意気込んでみることは出来ても、文章になる以上それは脈動的側面の「説明」になるのではないか(僅かながらその成分は入るのではないか)。

 本が読めなくなる(しかし一時的にではある、読めない日、期間などがあるという感じではない)ことに所有の問題が絡んでいるのではと書いたが、明らかに、所有できないものを所有しようという雑念が働いて読めなくなっている場合もあれば、何とか読み解こうと思って停滞している場合もあり(それは所有できないものの所有というより、障害物などにつっかかって流れの滞ったところを、なんとか障害物を外すなりして流れさせようとする動きだから、所有とは逆である)、そのどちらかというのがハッキリしている場合もあれば曖昧な場合もあるということをひとつ、付け加えておきたい。

 それで所有できないものを所有できるとまずは思い込むところから始めるという話に関連して、束縛のことだが、束縛なんぞどうしてあんな面倒なことをするのかと、心情的にはあまり理解できないところがありながら、それが発生し、ときにはエスカレートしていくこと自体(その仕組みと言ったらいいか)はよく分かる。所有できると思い込むところから始めるのだから、そうと決まった以上はどこまで実行に移すかは別として、どこまでもそれを自分のものにしようとする気持ちが動き出す、しかし、実際には所有できないのだから、欲望にはゴールが設定され得ず、したがって際限がなくなる、しかし際限がないと知ろうがどうしようが、所有できると決めたのだからいけるところ(目的地はないが)までとことん動こうとする・・・。エスカレートすることなく済ませられている人も、その暴走性は、所有できないものを所有できると思い込んだ瞬間からセットされているのであって、それを辛うじて止めているのは理性であったり臆病であったり遠慮であったり周りの目であったりするだけだろう。エスカレートするしないに関わらず、所有できないものを所有できると思い込んだところから狂気的なものは始まっている。

 何故人を所有できないのに出来ると思い込むのかは分からないとして、そもそも何故人を所有できないか、それは物ではないからと言ってしまえばそれで終わりかどうか(物なら所有できる? 法律やルールが所有できないものを所有できると定めてくれているだけではないかどうか)、きっとそれでは足りなくて、これは先程「良い状態」を妨害して壊すことは可能でも、他人が感じている「良い状態」そのものを自分のところへそっくり引っ張ってくることは出来ないと書いたのに関連して(同時に体験することは出来るかもしれないが)、誰かと誰かが会うということの、全くの唯一無二性というものを見てみなければならない、つまり、私が見ているAさん、私が経験しているAさんを、他の人は通過することが出来ないということ、つまり人を所有できると思い込む、つまりそれはひとつの固定された、動きのないものとして人を見ることであり、それの帰結は当然、肉体を縛り付けておくことになるのだけれども、たといひとところに肉体を縛り付けていようが、私が見たAさんというのを、束縛する人が体験することは出来ない(身体を共有していないから)。同じAさんだろうが、それぞれが違うものとして体験しているから、所有しようがない、つまり存在というのは照らされる角度の数だけ違う面を持っていて、その角度ごとにその角度だけの、他の角度の人とは共有できない独自の関係が形成される。すると、ひとつの存在だけを取り上げてみても、そこにはまるで自分には入っていけない領域が沢山ある、いや、そんな領域ばかりだということが分かり、とても所有など出来るものではないということも分かる。そのことに気づき、存在は動きそれ自体であって固定されたものではないのだから、肉体を自分の近くへ縛り付けておこうが所有など一向出来やしないということが分かれば・・・。しかしそれが分かると、所有できないものを所有できると思い込むことで成り立っている枠組みは崩れてしまう、それが良いことであるか否かは分からない。つまり私が見るAさんは私しか本質的には知れないものであり、そしてそういう関係を誰とでも形成できる(というか自然に生まれてしまう)というのに、なぜそこからわざわざ所有に、しかも所有出来ないものの所有に躍起になるのかはよく分からない。