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 死んだように映るのではなく、死んだように映すという要請があるということ、つまり、訳も分からず存在してしまっている者が、訳も分からず存在してしまっている仲間を死んだような存在と判定することの訳の分からなさから出発しているのだが、こういうときあるべき正解として駆り出されるのは、イメージだけを集めた完璧な非実在者か、過去の人である(同時代に生きていないから勝手なイメージを与えやすい)。まず、あるべき正解や理想の人物像をググと横に引っ張り出してきて、それに較べてその横に立っているあなたはなんて死んだような、欠けた存在であるかを説くというのがまず笑ってしまうぐらいにおかしいが、非実在者は論外として、理想として掲げられがちな(生き生きとしていたという幻想を勝手に与えられている)過去の人であれ、俗に言う「死んだような状態」を持っていなかったと考えるのは間違いだと思っている、というのも、何とも言えない倦怠、無力感、虚しさ、こういうものは現代に特有の病などではなく、人間という身体のあり方から由来するものだと思っているからである、外界に対して見たときのこの異常な小ささ、遅さ、徐々に壊れるように出来ている身体・・・。

 生き生きとしている瞬間が過去の人にあったことは間違いないであろう、それは否定しない、しかし、そういう瞬間ならば誰にでも、つまり現代の「死んだように」生きていると勝手に判定されがちな人間にも必ずあるのだ。その瞬間を過度に引き伸ばして称賛しているか、見ないようにして徒に批難しているかの違いがあるだけだ。共に生きる者となると、壊れゆく身体に、募る無力感に、あるいは直接触れることが出来、過去の人物や非実在者となると、それに直接触れなくて済むどころか、触れようと思っても触れられないという事情がある。こういう事情を見ると、過去の人に較べて何と現代の人間は「死んだような」存在だろうかと必死に嘲笑し、嘆きたくなる人の気持ちも分かってくる(むろん同意はしない)。つまり、壊れゆく無力な存在であるということをまざまざと他者によって見せつけられることの必死の否定、それが軽蔑となり嘲笑となり批難となり、「まるで死んでいるような」という便利な形容を得るまでに至る。そいつは、生き生きとしている俺とは違って、「まるで死んだような」存在なんだ、そうでないということが分かったら、とてもじゃないが参ってしまう。