<118>「不決定や美意識の難しさ」

 美意識はその内に排除を含むのではないか、ということを以前書いたが、倫理観にしたところでそうで、極めて倫理的であろうとする努力はどうしても攻撃的なものをその中に宿らせてしまう。こうであらねばならない、こういうことをしていてはいけない、こういった姿勢であるべきだ、それが美しさを含む可能性は否定されないものの、それらが強まれば、当然排除の色が濃厚になってくる。つまり倫理的であろう美意識を磨こう高めようという努力が、そのまま倫理的であることや美意識自体と矛盾してしまう可能性が高いということだ。これは以前書いた「不決定」の問題にも似ていて、決定を容れようとしない、判断を挟まないというのは大事なことかもしれないが、それをしないように努力するというのが既に決定になるので矛盾するという話、同じ構造の問題であるというか、不決定や美意識というのはそのまま同じものである可能性もある(仮にそうでないにしても、それでも互いに重なる部分が少しはあるだろう)。つまり、不決定や美意識というものは、おそらく志向すべきものでありながら、おそろしく意識や意思といったものと相性が悪い、絡み合うと必ず厄介なことになるように出来ているものだということ、志向すべきと思われるのに意識してそれをすることが出来ない、良くあろうという姿勢の矛盾、成就の不可能性、それを感じて、では何をするどうしたらいい・・・という、もうその考え自体が決定に向かっているということ、であるから道徳などもそうだが、教育というものと結びあうことは本来あり得ないことではなかろうか。道徳というものはこういうものである、というのを教えてあげようという「意識」が、既に道徳とは矛盾してしまう。