<119>「ニュアンスがこぼれる」

 何の判断もつかない、何も分からないと言って、何かが浮上してくることを期待していやしないか、まあいい、取りこぼしの問題、別に解決しなければならないものの類であるかどうかは知らないけれども、それ自体曖昧なもので論が進められるもどかしさ、曰く才能、真理・・・。それぞれが違うものを持ち寄り、あるいはこう規定したい、こう規定するのだということが既に背後で決まっていて、当たり前のようにズレながら何でズレてしまっているのかを解決しようともしない、おそらくしたいとも思っていない。目に見えない、誰彼によってその想定しているものが変わってしまうあれやこれやの言葉は、あまり信用しないようにしている。真理の探求、こういうことが堂々と言われる不思議、その真面目さや熱意、論の巧みさなどに感銘を受けることはあっても、どうも馴染めない、その弁証法的方法が悪いからではなく科学的な仕方が悪いからでもなく、真理という何だかよく分からない曖昧なものを探求するというそのスタート地点が悪いから、どうしても結果は何だかよく分からないものにならざるを得ない。方法が巧みであれ、頭脳が明晰であれ、そこで使用されているものは言語だ、つまりは記号だ、完璧に組み立ててそれを現実世界の説明として役立てることは出来ても、その組み上げられた記号の体系それ自体が真理を表し得るはずもない、ニュアンスを取りこぼしているからだ。人物の名に当たるものはその人物の一切を含んでいて、何らの取りこぼしもなくその人物をそこに出現させることが可能になる、と言ったら人は笑うだろうが、そういった取りこぼしを常に行わざるを得ない記号化、つまり言葉にするという作業を通じて、その積み上げの方法さえ整えられれば真理に到達できると無邪気に考える人はいる(既に書いたが、そもそも「真理」とは何だろう、曰くそれはこれこれこういうものである、と言葉で説明する、そこにはまた取りこぼしがある)。