<122>「語りは歓喜なのか」

 後悔の言葉、懺悔の素振りすら見せない、とんでもない奴だ、きっともうとっくに忘れているんだろう・・・。そうかもしれない、大方忘れているのかも、しかし、そういった告白が歓喜と密接であることを意識し、努めてやらないようにしている場合もあるとは思う(この説明自体が既に歓喜を多分に含んでいるが、なるべく必要最低限に止めたいと思う)。歓喜に繋がることを承知して行っている場合は論外として、極力それを排除しよう、そうはならないよう努めて吐露し始める場合でも、ひとたびそれが語り、記述のリズムに乗るやいなや、歓喜を知らぬ間に醸成し出すことになってしまう。語りや記述という体系が歓喜であることを免れえないのかもしれない(歓喜自体である・・・?)。真摯に綴られたはずの謝罪の言葉が、見る者に、「分かったのだけれどもどこか違う」という印象を起こさせるのは、その底に流れる歓喜を何となく、あるいはハッキリと感じる為ではないか。