<138>「ないなりのものは拡がり」

 ないものをこねくり回す、それが嫌だと言ったって、もちろん程度の問題はあるだろうが、こねくり回せる確かなものというのはないのであって、ないものをそれなりに、こねくり回していくしかないのではないか(こねくり回すとすれば)、というのはまさに『かのように』という処理、非常にシンプルな話であるし、シンプルだからこそということもないのだろうが、大事な処理でもある。しかしシンプル故に、その処理がどうこうという問題はまあ今のところどうでもよくて(それは価値がないという意味ではない、むろん価値というものはないのだが)、

「こねくり回しているものは、ある確かなものだ」

という確信の無根拠さに注目する。それが、ある程度を持つと考えているだけならいいのだが(ないなりに)、ないとあるを混同しているとしたら、それはお粗末だ。振る舞わなければならない、何もないままではとりあえずのものさえ成り立たないからだ、言語を見るとよく分かる。しかしそれを、ないなりのものと思わず、あるものだと取り違えると、どこかで間違える(あるいは最初から)、それを警戒する、何かに至るためでないからこそ拡がるのではないか?