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 言葉を使うということ、同じ言語を使用しているということが、逆に異質さをハッキリと浮き上がらせる。到達したい方向、最初から決めてかかっていることが各々で違っていても、言葉の上だけでは巧みに議論が展開されているように見え、ちゃんとどこか共通の場所に辿り着いたかに思える。しかし言葉を通してちゃんとした順序が整えられていたとしても、後ろに控える意図がまるでバラバラだから、実は何にも組み上がっていなかったりする。愛はあるか、自由はあるか、という字面を見たとき、人はそれぞれ、実に様々なイメージを、考えを創造する。極端に言えば、愛があるという文字列を通過したとき、それを思い切り縛り込むことだと考える人もいれば、完全に解放させることだと考える人までいる。それで、

「あの人はこういうことを愛があると言っているが、それは違う、それは本当の愛ではない、本当の愛とはこういうものである」

とやっている(なんじゃそりゃ)。解釈が様々であるどころか、まるで反対にもなり、「本当の」という言葉を持ち出して固定しようとしても、また違う解釈の人に反駁されて失敗に終わる。こういうあやふやな、人によって定義が真逆になるような言葉をあまり信用していないのだが(確かにあるものだと思われているが、そのことをずっと疑っている)、

「人間は愛を持っているか否かが大事」

とか、

「人間は自由になり得るか?」

などの言葉が発せられると、何かそういう具体的な問題があるかのように錯覚させられてしまう、それは言葉の作用だが、そこに組み込む、あるいは組み込まれるものが各々によってバラバラであるということを見ないと、何かがずっとズレているまま、延々と無用な、というか変な議論を続けなければならなくなる。