<152>「社会と説明」

 社会とは説明である。もう少し言えば、社会内の個であることは説明の努力によって保証されている。逆に言えば説明に縛られる。これは非常に萎えることだが、まあ、やらない訳にはいかない。これに萎えているのはおそらく私だけではないだろうと思われるのは、到る所で嫌悪の結果を見るからだ。つまり説明の過剰、誰も何も訊いていないのに延々と自身の説明を垂れ流し続ける、突っ込まれることに対する牽制、積極的な防御。あるいはゴニョゴニョまあまあと濁す。ひとりになれるときはなるたけひとりになる(完全に説明が不要になるのはこの瞬間だけだ)。群れることへの嫌悪即ち説明の嫌悪なのではないか。