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 確かに感じられる、というところで済ませられないで、「真の」とか、「本当の」とかを持ち出さずにいられないのはどうしてだろうか。確かに感じられたのなら、それが自分の中でしっくり来たならば、もうそれでいいじゃないか。そこから、

「本当の何々とはこういうことを指すのだ」

とか、

「真の何々とはこうでなければならない」

とかで、自分より大きな範囲を巻き込みたがる、勝手に「本当」を、手前からどんどんと外へ拡げて、全体に及ぼした上で定めたがるのは何故なのだろう。

 おそらくそれは願い、私が確かに感じられるものは大方の人にとっても確かであってほしい、あるいは、これだけ確かに感じられるのだから、それ以外が本当であるはずはないだろう、という思いがあるのだろう。確かに分かったと思える部分が、他人と共通でなくてもいいというのは頭では分かっていても、なんとなくそれはそのまま「本当」へと繋がってくれなければ気持ちが悪い、納得いかないような感じがするのだろう。

 手前で勝手に「本当の」とか「真の」とかを定めてしまうと、手前で勝手に定めてしまった以上当然、それにそぐわないケース、つまりは人物が出てくる。そうすると成り行き上、

「ああいう人物、ないし生き方は本当ではないんだよ」

「本当の経験をしているとは言えないんだよ」

という排除が起こる。しかし、現に生きているということが、どこかで「本当」と交り合うのか否かは別として、存在が本当でなかったり、真でなかったりすることがあるのだろうか。私はそんなことは有り得ないと思っている。つまりどうしても、「本当」という規定の方に(どんなに完璧に見えるものでも)無理があると思っている。

 願いとして定める「本当」は、たといどんなにか多くの人の承認を受けるようなことがあっても、また受けやすい領域があったとしても、決して全体を覆うことはない、というのは確かに怖いことかもしれない。違うことを「本当」だと思ってもらってちゃたまらないな、という場面は確かにあるだろう。しかし、当人が確かに感じてしまっていることを、どうやって動かせるか。それは、その人にとっては確かなのだ。全体を覆える「本当」などない、ということが怖くないとは言わない。なるほどそれは怖いだろう。しかしそれよりも、手前勝手に「本当」を拡げて、「本当でない人」を無理やり生み出してしまう処理の方がよほど怖いという気もする。