<165>「効果的対話の稀少さ」

 話し合うことが必要だ、そうしないと何も前に進まないという話と、議論なんかしていても仕方ない、各々が勝手に思考を進めていく方が結果的に良いという話とは、一緒ではないまでも矛盾はしないと思っている。つまり、こちらの為にも相手の為にもなるような議論の場を作っていくのには、相当に繊細な努力が必要であるということ。どちらかが壊そうとしている場合はもちろんのこと、お互いにしっかりとした準備、注意を持ってして臨んでも、大抵は揚げ足取り、取るに足らない部分を取り上げての要らぬ追及、私的な感情を刺激されての激昂、ただの褒め合い、言葉遊びの類に堕することになる。お互いがそんなことをするつもりなどなくとも、こうなってしまうことが実に多い。

 おそらく、お互いが刺激を受けて、思ってもみなかった領域までジャンプできるような素晴らしい対話も、実際にあることはあるのだろう。しかし、そこまで到達できる可能性があまりにも低く、現実のことでありながら、さながら空想の産物のような姿をしているので、そんなに可能性の低いものを追うならば、極端ではあるが、他人との議論などは一切断って、ひとりで沈思黙考、自問自答していた方が遥かに良いという結論になるのだろう。つまり、効果的な対話が、沈思黙考より遥かに良い効果をもたらすことを知らない訳ではないのだ。しかし、自分がどうこうという以前に、コントロールの効かない他者が入ってくることもあるし、大概が実りの無い、不毛な罵り合いつつき合い褒め合いになることを思えば、ひとりで考えていた方がまだマシだというところに行き着いているだけのことだろうと思うのだ。