<173>「運命ということ」

 運命というものは何かと考えるとき、それは言葉の意味を追えば当然なのだが、逃れようなどと思っても逃れられないもの、意志などを超えたところで定められているもの、となるから、例えば私にとってそれは、

「日常性の枠に取り込まれる」

ことだったりする。突飛な生活を送ろうと、完全な自由を得たと喜ぼうと、それが続けば即日常性の枠に取り込まれる。あっちゃこっちゃ行く、縛られていないということ自体が、一定の単調なリズムになる。運命というものは大体これに尽きると考えている(食う寝るなどもあるが)。凡そ感情に訴えるものではないが、単純で重い。

 反対に、脱落、脱出しようと思えば出来るものは、それがどんなにか外見上、運命のような姿をしていても、結局は運命でないと思っている。であるから、これをやるために生まれてきた、これをやるのは運命だったんだ、というのは少し捉え方がズレているように感じる。人間にとって「意味」とか「目的」は、全く運命的なものではない。そう見たいという意思があるだけだ。それらを自分から外したところで、平然と存在することが出来る。それを外して存在することは出来ない、という条件でなければ、それは運命とは言えない。そこから外れたものを存在出来ないようにしようとし、果たしてその通りの結果を得、

「ほら、意味とか目的から外れるやつは存在出来ない運命なんだよ」

と述べるのは、運命と意志とを巧みにすり替えているにすぎない。