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 大方の人には分かんないだろうねと、敢えて分からないような、あるいは分かりにくい提示の仕方をして得意になっているのもガッカリだが、自分が分かるか分からないか、理解が容易か否かを基準にして、分からなければ即、

「こんな分かりにくい、難しいものは大体ダメなんだよな」

と判断するのも、同じように残念だと思わざるを得ない。人によって表現されたものに、理解可能か否かという側面だけで近づいていくのは何とも貧しい。それは表現されたものだけでなくともそうだが。例えば、利があるから付き合っているだとか、相手の型というものはこういうものだと把握していて、自身とその相手の型とが上手く嵌まるから関係が良好なのだ、などと分かりやすい説明を容れてみても、一向に現実の関係の全容は明らかにならない。どうして合うのか、何で付き合っているのか、利があるのかないのか、そもそもそんな捉え方で人との付き合いを進めているか、そんなことを本当に強く意識しているか、分析みたいなことを外からされて、話を聞いて、なるほどそれはそうなのかもしれないなあ、などと言いながら、その実全くピンと来ていないのではないか。つまり、分かるから親しむという訳でもない。分からないで交流、交通していることの方が圧倒的に多いと思うのだ。

 それが懐かしいのか新しいのか、ヒリヒリするのか温かいのか、おそらくそういうものが複雑に混じり合って、何らかの親しむ理由を形成してはいるのだろうが、まず掴めない。しかし、ハッキリ何とは分からなくても、

「よし、この人としばらくぶつかってみよう」

とは何処かで感じる。感じるのだからそれでいいではないか。理解できるから良いとか悪いとか、そんなことはどうでもいいことだ。