<190>「恩義、」

 感謝の連呼が防御、威嚇に見えてしんどいということを以前に書いた。何に対する防御か、威嚇か。恩が、施されるのではなく、着せられることに対する防御だ、威嚇だ。どうして防御や威嚇の声が大きくならなければならないか・・・。

 礼儀として、何かの施しがあったことに対して感謝を述べるのは良い。しかし、それは最低限でよいと思う。基本的には、有難さを感じられていればそれでいいのだし、施す人もなるたけそれが施しだと感じていない方が良い(自然との関係・・・)。常にその気持ちを示していなければならないというのは、恩は施されるものだということに対する信頼が揺らいでいることを意味する。つまり、施した恩は忘れられていてはならない、常に想起されていなければならない、施したという事実をいつも確認出来なければ気が済まないという意識。それはしかし恩を着せることだ。着せるぐらいなら何もしない方が良いくらいだが(ひどい憎しみを育てる)、恩など施した瞬間に忘れる、施したという意識すらないままの方が良いのだが・・・。それに真っ向から対立する姿勢が、感謝、感謝の連呼である(しんどい・・・)。太陽を見る。きっと全ての基本になっていることすら知らないだろう。恩を施せるようになるのはいつか(施したと思ってきたほとんど全てのものは、ただ着せてきただけだったのだろう。なかなか自然のようにはいかない、時間がかかる)。