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 今現在使ってもいないし、今後使う見込みのないものでも、そういった事情を承知して代わりに使っている人を見ると、なんとなく嫌で、また嫌とまではいかなくてもあまりいい気持ちがしなかったりする、その人が勝手にどこかに持っていったり奪ったりする訳でもなく、ここいらにあるのはあるのに、何か納得がいかない・・・。こういうことで意地になったりなられたりというのを経て、この問題は理屈ではない(事実使ってもいないし、今後もほぼ使う予定がないのだから)というのが大変なことだと思った。

 そして、今でもよく考えるのだが、これは食べられずに捨てられてしまう大量の食べ物の行方の問題と無関係ではないと思った。これは食べちゃ駄目ですよと言う、ではその食べ物はどうするんですかとなると、捨てると言う、捨てるならくれたっていいではないか(どちらにせよ処分だ)、と理屈ではなる。そして何も間違ってはいない。しかし間違っていないけれども、おそらく食べ物の所有者はいい顔をしない。この、いい顔をしないという事実がものすごく重たい(理屈が通っていればそれでOKという訳でもない)。何故、すんなりと渡せないのだろうか。渡せても、どこかに不満が残るのだろうか。これはもちろん余っている食べ物の問題には限られない。広く様々な物事に当てはまるだろう。おそらく、嫌なことだが、自分にとっても耳の痛いことだが、価値を見出していないところ(捨てる、使っていない)に価値を見出されることが不愉快なのではないか。もちろん、全てのことにおいてそうだという訳ではないだろう(例えば、私は、どうせ捨てるものを何で他の人がもらって食べてはいけないのかと思っている)。ただ、人それぞれ、価値を見出していないところに新たな価値を見出されるのが嫌な分野、領域、タイミングというのを持っていそうだ。それがぶつかると問題が起こる。それは理屈では超えられない。しかし、理屈が通っているものをどうするか。おそらく、そこをどう超えていくかなどという大袈裟なことは考えない方がいい。理屈では合っているけれども、どうも不愉快になってしまう場面からは離れる。距離を取ってぶつからないようにし、すっと通るようにするのが一番いいと思う。ただ、嫌な場面の当事者にならなければいけなくて、避けることの出来ない場合は・・・。多様性を承認するという話には美しさばかりがある訳ではない。そこには多くの我慢が伴う。