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 誤解の満艦飾という言葉を見て、考えていた。これの解釈ではないのだが、さて、人はその人のやり方で誰かを全面的に掴むし、その掴み方に間違いというのはあり得ない、何故ならひとりひとりが世界(よく小宇宙などとも言われる)なのだから、ということを何度か書いてきた。つまり私が掴んでいる私というのは、私にしか通用しないものでもあるということだ(だから駄目とかいうことではない)。すると当たり前だが、他人が掴んでいる私というものには、他人の眼の数だけの面がある。それは私から見れば、

「誤解」

に映るかもしれない。しかしまた、私が全面的に掴んでいる私も、私の全容を把握している訳ではない。したらば何が誤解か。全てが誤解ではないし、すると全てが誤解とも言える(全部を掴むことはないという意味で)。それらを全部拒否しなければいいのである。もちろん、あなたはこうだからこうするという勝手な解釈に基づく物理的な攻撃、妨害には付き合えないし、また付き合う必要もないのだろうが、他人が私をどういう人間として把握するか、どうにもこういう奴に見えてしょうがないというものを、動かしたって仕方がないし、こちらからはどうやったって動かせないではないか(その人が動かそうと思わなければ)。そこで、

「悪いけど、私はあなた方が思っているようなそんな人間ではないんですよ」

と、私が把握している私以外のイメージを拒否して、狭いところだけで自己を構築しようとするのではなく、

「なるほど、こういうようにもそういうようにも、またああいうようにも・・・」

と、全部の人の把握を受容する(例えそれがネガティブなものであれポジティブなものであれ)、私の私に対する理解まで含めて全てのものを受け容れるその容器、穴としての大きな自己を据える。そういうものが何か、誤解の満艦飾という言葉から連想されるのであった。眼は、私は穴であると言うときの、穴という観念の象徴、あるいは物理的にもそのものである。