<242>「窺い、窺われる」

 窺われさえしなければ不快な気が起こらなかったのに、と思うことは多い。また、窺って不快にさせてしまうことも。以前、こういうところが欠点だと当人から打ち明けられると、そんなところ今まで気にも留めていなかったのに、なんだかそこがその人のどうしようもない欠点のように感じられてきてガッカリしてしまう、ということが起こると書いたのだが、それにも似ている。窺うという行為はどうしてこうも不快に結びついているのだろうか。

「ねえ、大丈夫だった?」

「もう気にしてない?」

「この間のことだけどさあ・・・ねえ・・・」

など、訊かれただけでこんなに嫌な気持ちになるのも不思議だと思うのだが(善意で訊いてくれていることもあるのだから)、嫌になってしまうのだから仕方がない。

 これもその、欠点の例と同じで、訊かれないうちは全然大丈夫だったり、何なら、もうひとりでそれについては処理し終わったような感覚になっていたりさえするのだ。そしてそれは強がりではなく、その後何にも窺われなければ、おそらく耐えるという感じもないままに、物事が本当に自分の中で解決されて、そのまま過ぎてしまうだろうという気がする。蒸し返される感じがして嫌なのか、その表情が(善意の顔にしろ悪意の顔にしろ)嫌なのか、解決されようとしているところに介入されるうるささなのか、はたまた全然関係のない理由に拠るのか・・・。